Since えひめネットワークセミナー1995
えひめインターネットアーカイブ

我々はインターネットの創世記に巡り合わせて30年
働き盛りの年を経て今や後期高齢者。
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皆様の汗と涙の物語を記録したいと計画しました。

えひめネットワークセミナー グループ

1995年開催の愛媛ネットワークセミナー

(インターネットセミナー開催資料)

放送とインターネット

1.地域主義県政

愛媛県議会議員として、長年に渡って保守的な政治力を身につけた白石春樹氏が1971年(昭和46年)、愛媛県知事に就任した。

白石知事は積極的な政治手腕を発揮し、4期16年に渡って愛媛県政に強力なリーダーシップを発揮した。

1979年(昭和54年)からの3期目、白石知事が掲げた愛媛県政の大きなスローガンが「地域主義県政の推進」であった。

戦後の経済発展と大都市集中、地方の過疎化に対する地域おこし、街づくり、地方創成など、日本全体の大きな政治の流れを汲んだ政策の提案であった。

白石県政の末期に当たる1986年(昭和61年)7月、「財団法人愛媛県まちづくり総合センター」が設立された。県内各地で盛り上がってきた地域おこし、街づくりの草の根運動の拠点として、県政が積極的に住民運動をバックアップすることになった。

4期16年間、愛媛県政に君臨した白石知事は、1987年(昭和62年)1月に引退し、後継の知事として伊賀貞雪副知事にバトンタッチした。

白石前知事が提唱した地域主義の政策は、伊賀県政の大きな柱として引き継がれた。伊賀知事就任と同時に、県職員から公募した施策の一つとして、まちづくりセンターに「パソコン通信Townタウン」が開設された。

まちづくり運動の新しいネットワーク、通信、コミュニケーション手段の目玉として、確かに「パソコン通信」という新しいメディアは、今までとは違った明るい未来を象徴する響きをもったメディアでもあった。

1985年に民営化され、新しい情報メディア「キャプテン」システムを開発、実用化したNTTも、少し遅れて、愛媛ブロック単位のパソコン通信「まどんな」を立ち上げた。

2.パソコン通信

1967年(昭和42年)に南海放送入社以来18年間勤めてきた報道部記者から、1985年(昭和60年)1月に、管理部門の経営企画部に異動した。

仕事の内容が経営計画、社内調整、情報収集などに一変した。最初は戸惑ったが、経営的な観点からの地域の政治、経済、文化等の情報収集は報道部門の経験が大いに役立った。新しい住民運動の大きな流れであるまちづくり、街おこしなどの動きは、放送メディアの経営にとっても魅力のある、ビジネスチャンスかもしれなかった。

住民運動の情報を集約する「愛媛県まちづくり総合センター」は貴重な情報源、大きな拠点として、情報収集などのために出入りする機会が増えていった。そこで出会ったのが、設置直後の聞きなれない「パソコン通信」であった。

パソコン、通信、情報、ネットワークなどの聞きなれない用語は、文系の頭には理解しにくかった。しかし、新しいメディアであるパソコン通信「Townタウン」「まどんな」とも、業界を越えて集まった若い人たちがボランティア的に運営を続け、好奇心旺盛で、前向きな、新しがり屋たちの熱意は伝わってきた。

それから10年、全国的なパソコン通信のネットワーク展開、パソコンの急速な進化、サーバーのネットワーク化などの経過を経て、「インターネット」がパソコン通信に代わる新しいメディアとしてグローバルに拡大、発展して行った。

3.ニューメディア

1980年代、1990年代には、パソコン、衛星放送、都市型CATV、キャプテンシステムなど新しいメディアが次々に出現し、「ニューメディア時代」という呼び名が流行していた。

これに対し、ラジオ、テレビ放送は、すでにオールドメディアであった。1960年代後半から放送業界で仕事をしてきた者にとっては、その当時も放送はマスコミ媒体として発展を続けていただけに、「オールドメディア」の呼称に違和感を持ったことを覚えている。

放送業界でも、1980年代初めには文字放送多重放送が始まり、90年台にはファクシミリ放送はやデータ放送の研究が始まった。衛星放送や都市型CATVも事業化された。

情報格差、メディア格差を解消するために、郵政省は全国的に民間放送を4局化する方針を打ち出した。長い間、民放2局時代が続いてきた愛媛地区では、第三セクターの(株)愛媛CATVが1991年(平成3年)10月に開局し、放送の再送信による多チャンネル化が進んだ。また、1992年には第3局のあいテレビ、1995年には第4局の愛媛朝日テレビの平成新局が相次いで開局した。

南海放送の社内でも、こうしたメディアの大きな変化に対応するため、1992年(平成4年)にファクシミリ放送研究プロジェクトを立ち上げた。翌年には、パソコンを汎用コンピュータの端末として活用する社内LANの研究も重要になり、「情報システム開発委員会」に発展させている。

「インターネット」はパソコンの進化をフルに活用し、情報の共有化、蓄積、双方向な発信を可能にしながら、グローバルに発展していった。そして、光ファイバー網などインフラの整備も急速に進んだこともあって、インターネットが身近なメディアとして高度情報化時代の基幹ツールに躍り出てきた。

4.インターネット

南海放送のインターネットのホームページ開設は、1996年(平成8年)1月である。NECのMESHというネットワークを使い、rnb.co.jpという今でも使っているドメインでホームページを開設した。

パソコン通信時代を経てインターネットが身近になるまで、社内の担当者が手探りで新しいメディアを研究、利用してきた。ラジオ、テレビ放送のメディア力をさらに高めるため、放送を補完する新しい情報発信メディアとして、インターネットを積極的に活用することになった。

その後のインターネットの発展は目覚ましい。高度情報化時代のグローバルな通信手段として着実に発展し、きめ細かい浸透を続けている。

マスメディアとしての放送は社会的な影響力が大きいだけに、放送内容の中立、公正など放送法による法的な規制が設けられている。しかしまだまだ発展途上にあるSNSなどの通信には、情報の内容に対する規制がほとんどない。そして個人が自由に情報発信できるSNSによる社会的な影響力が大きくなってきただけに、社会的なトラブルが多発している。

通信手段の発展、多様化に対するユーザー一人ひとりのメディアリテラシーが追いついていない現状が、複雑な社会問題を引き起こす結果を生んでいる。

インターネットの急速な発展が高度な情報化社会を構築する一方で、価値の多様化、そしてグローバル化は、経済や情報化の格差拡大などによる新しい世界的な問題を提起し始めている。

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